「いってきます」が最後にならない世界を。震災15年目に思うこと

日記

震災から15年、私たちが「命」から目を逸らしてはいけない理由

2011年3月11日。あの未曾有の東日本大震災と原発事故から、早いもので15年の歳月が流れました。

街並みは新しくなり、当時の傷跡は少しずつ風景に溶け込んでいるかもしれません。しかし、数字が物語る現実は、決して風化させていいものではありません。1万5千人以上の方々が命を落とし、今この瞬間も、2500人以上の方々が「行方不明」のままです。

15年という月日は、生まれた子供が義務教育を終えるほどの長い時間です。それでも、大切な人を待ち続ける家族にとっては、あの日から時計の針が止まったままのような感覚があるはずです。

 

「当たり前」という奇跡が奪われるとき

もし、今日家を出た家族が、そのまま二度と帰ってこなかったら。
もし、昨日まで笑い合っていた友人が、突然目の前から消えてしまったら。

想像するだけで、胸が締め付けられるような、言いようのない孤独感と悲しみが襲ってきます。この感情に、国境はありません。性別も、年齢も、宗教も関係ありません。大切な人を失いたくないという願い、そして失ったときに感じる深い絶望は、人類共通の痛みです。

自然災害は、私たちの力では抗いようのない圧倒的な力で、日常を奪い去ります。交通事故のような不慮の事態も、誰の身にも起こりうる「不条理」です。私たちは、そんな脆い世界の中で、奇跡のような平穏を生きているのだと痛感させられます。

 

人の手で「悲劇」を生み出してはならない

だからこそ、いま世界を見渡したときに、言葉にならない憤りを感じずにはいられません。
震災のような、抗えない自然の脅威によって多くの尊い命が奪われた歴史がある一方で、海外では今もなお、戦争によって「人の手で」命が殺められています。
自然災害で誰かを失うことも耐えがたい悲劇ですが、人間が意図的に他者の命を奪うこと、そしてその決定によって多くの家庭が引き裂かれることは、決して許されることではありません。

「なぜ、私たちは同じ悲しみを分かち合えるはずなのに、争いを選んでしまうのか」

集団が集まれば、意見の食い違いや諍いが起きるのは避けられないことかもしれません。それは個人のレベルでも、国家のレベルでも同じでしょう。しかし、その諍いの「延長線上」に、無実の人々の死が積み重なっている現状は、あまりにも歪んでいます。

私たちにできる、ささやかな祈りと一歩

震災から15年。私たちがこの節目に考えるべきは、過去を懐かしむことだけではありません。いま、この空の下で続いている「避けられるはずの悲劇」に目を向けることではないでしょうか。

15年経っても癒えない震災の傷跡を見つめる私たちは、誰よりも「命がいなくなる悲しみ」を知っているはずです。その痛みを知る者として、他者を傷つけることの虚しさを、もっと強く発信していく必要があるのかもしれません。

一刻も早く、世界中の戦火が止むこと。

そして、これ以上「人の手による悲劇」で涙を流す人が増えないこと。

震災で亡くなられた方々への供養は、今を生きる私たちが、命を大切にし、平和を願い続けることの中にあるのだと信じています。

今日、あなたの隣に誰かがいてくれること。

その「当たり前」に心から感謝しながら、静かに平和への祈りを捧げたいと思います。